あなたの中にもある?愛されるいい女vs都合のいい女
松姫にみるいい女とは?

松姫の母油川夫人は甲州一の美女として名高く、
松姫自身も同母姉妹である菊姫と共に美貌で有名でした。
松姫は、甲斐の生まれで、永禄10年(1567年)、7歳の時に織田信長の嫡男織田信忠(11歳)との婚約しましたが、
松姫と信忠は実際に会ったことはなく、手紙のやりとりをして過ごし、両者は次第に精神的な繋がりができたのです。

武田家において形式上は「信忠正室を預かる」として扱かわれ、新館御料人と呼ばれていました。
武田信玄が西上を開始すると、徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが起こり、信長が徳川に援軍を送ったことから、
武田・織田両家は手切れとなり、松姫(11歳)との婚約も解消されたのです。
その後、かつての婚約者であった織田信忠を総大将とする織田軍の武田征伐を避ける為、
仁科盛信の娘・小督姫ら3人の姫を連れて、武田旧臣が多く住む武州多摩郡恩方(現・東京都八王子市)へ向かい、古刹・金照庵(現・八王子市上恩方町)に入ります。
武田征伐後、八王子に落ち延びていた松姫のもとに織田信忠から迎えの使者が訪れ、松姫が信忠に会いに行く道中にて本能寺の変が勃発し、信忠は二条御所で明智光秀を迎え討ち明智軍を3度撃退するも、衆寡敵せず自刃して果て(一部の史料には信忠の子・三法師の生母は実は松姫だったとするものもあるが、生前に松姫と信忠が会ったという可能性すら低く、同年秋、22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったといわれます。
尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、蚕を育て、織物を作り得た収入で、3人の姫を養育する日々をおくりました。
武田家臣であり、当時は江戸幕府代官頭の大久保長安は、彼女のために草庵を作るなど支援をしたそうです。
武田家の旧臣の多くからなる八王子千人同心たちの心の支えともなったといわれます。